飾らない場所

何者でもなくただ生きてるだけの、ここに居るだけの僕・私・俺

自死を選んで後悔するのは

自死を選んだ人の身近な人は

故人のその時の苦しみに目を向ける。

 

生きている間に

気付けなかったその苦しみに想いを馳せる。

 

そしてその苦しみに悔やんでいるのは

当の故人ではなく、生きている人である。

 

それが子なら尚更なのだろう。

 

いいこで 優しいこ。

いい人で 優しい人。

 

だから非情にもなれず

自死を選んだのだろうとそういい聞かす。

 

きっとそうだっただろうと

俺の知らない人であっても俺はそう思う。

 

身近な人がそう言うのだから

そうなのだ。

それはなげやりな肯定ではなく、

少なくとも(悪い意味ではなくて)その人にたいしてはそう振る舞っていただろうし、故人のその生き方を無下にはしたくないからだ。

 

それは故人の親愛の賜物なのだと思う。

 

だから親愛を向けられていた人は

悔やんで当然なのだ。

 

それに対して否定はしない。

 

でもだからこそ、親愛を向けられていた人には

悔やみと同時に安息にも目を向けてほしいなと感じる。

 

悔しかったね。辛かったね。と同時に

もう心配ない安心を寄り添わせてあげてほしいと願う。

 

嫌なことも辛いことも言わず

一人で抱えて自死を選んだ故人は

全てを自分で選び、突き進んで、戦って…

自分の問題は自分で解決した強い人達なのだと俺は思う。

 

優しさを捨て、非情になれば

生きていけたのかもしれない。

でも、それを捨てたらその人じゃなくなってたかもしれない。

 

結果的に、優しさ捨てて非情になる選択をせず、自分であり続けたのだと感じるのだ。

 

染まらず自分のままで生き

自分の人生に自分で幕を引いた故人を

俺は弱いだとか、苦しかっただろう。だけだとは思わない。 思えない。

 

それでも、どれだけ自分を押し殺してでも

生きていてほしかった。 と願うのは

生きているものの性。

 

誰かのそれに応えて

生き続けてる人もまた強いのだと俺は思う。

 

 

地元は息苦しい

たまに、考え出すと

地元に居るのは息苦しいなと思うことがある。

 

気にしなければ、気にならないのだけれども

地元に居ると ばったり昔の知人にあったり

知り合いから間接的に別の知り合いの話を聞いたり

関わってたり。

 

自分は会わないけど、まだ近くに居るんだな。

とか思うと…ちょっと息苦しく感じる。

 

ばったり会うとめんどくさいな。とか

ああ、アイツの子供はもう何歳くらいになってんだな。それだけの時間、自分は何をしてきただろうとか。

 

何も誇れる生き方はしてないから

余計に息苦しいんだろうけどもね。

 

なんだかなー…。

 

 

 

同性愛者だったとしても。

カミングアウトの話を書いたので

これも書いておこうと思いまして…

 

たとえ同性愛者だったとしても

・関わる(付き合う)人間の全てが同性愛者だとは限らないと言うこと。

・関わる(付き合う)人間の全てにカミングアウトしてるわけではないと言うこと。

 

この辺の事はわかってて欲しいなと思う。

 

カミングアウトされると、

『じゃあ、仲の良いあの子も…?』

『あの子とはどういう関係なんだろ…?』

とか勝手に思う所があるとは思いますが…

 

同性愛者は同性愛者としか人付き合いしないとか、

仲良くなる人、皆にカミングアウトしなきゃいけないとか

そんなルールは無いので…ってか

冷静に考えて、そんな縛り持って生きてる人間はそうそういないと思う…(笑)ので、

 

変な勘繰りや決めつけは

しないでもらいたいなと思うし、仲がいいからってアウティングしちゃったりするのは違うと思います。

 

 

カミングアウトされた側って…

同性愛者の当事者は

色んな考えの中、思いきってカミングアウトをする。

 

じゃぁ、されたほうはそれをどう消化すればいいの。

どう接してあげることが正解なの?

何をもとめてるの?

 

そう感じることもあるだろうと思う。

"どう接することが正解か"この事については

カミングアウトした側とされた側の今までの関係性による部分が大きいとは思うし、明確な正解なんてものはなにもないのかもしれないが、

 

◼️例えばされた側が親だとしたら

別に身構える必要もなくただ話を聞いて日常を過ごせばいいと思うし、日常を過ごす中で、カミングアウトした側がここまで言っても大丈夫かな?とか思うと段階的に話し出すこともあるだろう。

 

理解できないとダメみたいに思わなくても大丈夫だし、親が理解してあげないと子供の行き(生き)場が無くなる。なんて気負わなくて大丈夫。

ただ、否定して自分の意見を押し付けてしまうのはカミングアウトした側に "この人にはなに言ってもダメだった" と思われ進展しないことが多いから

それを望まないなら・良好な関係を気付きたいのならしないほうがいいとは思う。

 

理解 って言葉にすれば簡単に聴こえるけども

実際にはなかなかに難しいもの。 

何年も悩んでる当の本人だって自分の事・マイノリティの事を100%理解していないのだから

急に言われて理解できるほうがすごいのだ。

 

理解してあげようという気持ちがあるとするならば

もうそれだけでいいのだ。言ってしまえばそれが正解なのだ。

マイノリティについて一緒に考えていく姿勢があれば、なおいいのだろうと思う。

 

◼️友人にカミングアウトされた場合は

今までと変わらない関係を望んでることが多いと思う。マイノリティどうこうよりも、人間としてどうか。そこをみてみるといいと思う。

言ってしまえば、今までよりももういっぽ踏み込んだ自分のコアな一部分をしってもらいたいのだと思う。

 

◼️友人にカミングアウト+告白された場合は

素直に付き合う意思があるのかないのか、を伝えればいいし、(ただカミングアウトされただけの場合も同様だが)今後の付き合い方も含めしっかり自分の意見を言ってしまって大丈夫。

結局の所は人間関係なのだから。

 

◼️どんな関係性でもカミングアウトをされると言うことは、カミングアウトをした側は基本的にはした相手を信頼しているし、カミングアウトをした後も変わらない関係でいたいと思ってることが多いと思う。

 

突き放される事・話が広がって関係ない人にまで誹謗中傷を受けることが一番怖いと思うからされた側は自分の意見で結論を出してあげて欲しいなと思う。

 

 

カミングアウトをする意味はあるのか

カミングアウトは必要か否か。

結論からいうとどっちでもいい(笑)

自分が生きやすいと思うほうでいい。と根本的には思ってるし、第一に考えるのは自分の事でいいと思う。

当事者として生きていくのは自分なのだから。

 

俺はそう思って生きてきたし、自分なりに考えてカミングアウトはせずに生きてきた。

他の誰に言ったところで自分が当事者であることにはかわりないし、自分がカミングアウトすることで

悩んだり辛い思いを相手がするのならば、わざわざしなくても良いかな。てか絶対にしない!と思ったりもしたのもあってカミングアウトはせずに生きてきた。

 

カミングアウトしてる人は周りに恵まれてたとか

してない人は恵まれてないとかそんなことは無いと思ってるし、どっちも一長一短。だと感じてる。

 

そんな風に生きてきた俺だが

いまの時代の流れや、自分が歳を重ねて色んな考えに触れたりするなかで

今は別にカミングアウトをしても良いかなとは思えるようになった。

 

とは言っても、実際にカミングアウトをしたわけではないし、したから自分の何かが変わるとかそういう風には思ってない。

 

俺がカミングアウトしても良いかなと思えるようになったのは

マイノリティな人が身近にいるかもしれない。といわれる世の中で、自分の身近な人が無意識の中で言葉や行動で当事者を傷付けてしまうかもしれないな。カミングアウトすることで少しは減るのかもしれないな。なんて思うと

 

カミングアウトをする価値はあるのかもしれないと思ったからだ。

 

多様性なんだからを理由に。

多様性なんだろ?

だったら、同性愛者を気持ち悪いと思う人間も認めろよ。

 

なんて言葉が飛び交う攻防戦。

 

個人的にはその通りだと思う。

 

同性愛者を認めるも認めないも好きも嫌いも。

全部自分で決めていいと思うし、それを無理にかえる必要も無いと思う。

 

でも

認めないから、嫌いだからって

当事者を傷付けていい理由にはならない。

 

そこはしっかりと認識して欲しいと俺は思う。

 

当事者を傷付けていい理由にはならない。というと

じゃぁ俺は嫌いな相手に嫌いだとも言わずに我慢しなきゃいけないのか。と曲解する人も出てくる。

 

別にそこまでしろとは誰もいってないのに。

 

嫌いな相手に嫌いだと伝えることが悪なんじゃない。

生きていくなかで、そういう嫌いな人間に自分が遭遇した時、自分がどういう対応をしているか考えてみればいいと思う。

 

相手との関係性や距離などで

対応のしかたがかわってくるのではないだろうか。

 

人間関係ができていて

あなたのそう言うところが嫌いだと伝えたり、はたまたなにも言わず関わらないようにしたりするのではないだろうか。

 

危険性があるのならば

もっと強い言葉で自分を守るように言ったり、逆に言わなかったりとするのではないだろうか。

 

ただ同性愛者にたいしても

"同性愛者"ではなく一人の人間として扱って欲しいという根っこの部分を望むのは

そんなに目くじらを立てるほどに否定しなきゃいけない事なのだろうか。

 

 

アウティングの危険性は時代が解決してくれる?

自分がマイノリティ側の人間だからなのか

最近、多様性をうたう時代の中で

一番わかりやすく身近な?同性愛のネタというか

話題を組み込むドラマや映像作品が本当に増えたなと感じるし、そういうのはやはり気にして見てしまう自分がいる。

 

それはBL作品を筆頭に

男同士のセックスや禁断の愛 感が強かった昔の作品とは違っていて

それとは別の部分。人間性というか、どういう人間でどういう事に苦しんでて、どう生活しててみたいな

普通の人と変わらない 的な要素に重きを置いて造られている傾向は

個人的にはいい方向に流れているなと感じる。

 

昨今では、BL作品に限らず

恋愛ものや、時代を撮す感じのドラマにも組み込まれてたりするのだが、

 

そんな作品の中で

 

◼️アウティング

(当事者じゃない者(本人以外)が、第三者(マイノリティだと知らない相手)にマイノリティであることを知らせてしまう行為。)

(※あえてマイノリティという言葉を使ってます。)

 

について触れられていた。

個人的にはここ(アウティング)は(今はまだ)本当に繊細な部分だと思ってたりする。

 

実際に、アウティングがなくとも

そんな要素があるだけでバカにされたり、陰口をたたかれたりがあるし、少なくともそういう時代は過去にはあって、いじめに発展したりそれを苦に

死のうとしたり、死んだりしてしまう事があるのを知ってる。

 

それは過去に自分も死のうとしたことがあるから

本当に注意しなきゃダメな部分だと個人的には感じるのだ。

 

でも、しちゃダメな事。とはちょっとニュアンスが違う気もしている。

 

というのも、上記でも書いたが

" 今はまだ "繊細な部分だと感じるからである。

 

個人的には

本当は誰がアウティングしようと

嫌な思いをすることがない、普通に暮らせる世の中なら

そんなことを気にしなくていいと思うのだ。