飾らない場所

何者でもなくただ生きてるだけの、ここに居るだけの僕・私・俺

同性愛者は気持ち悪い とは

LGBTQの話になると

「特別視されたいのか」「優遇されたいのか」とか

ムキになる人が出てくる。

中にはそう思うからこそ、対抗するかのごとく

「同性愛者は気持ち悪い」「同性婚とか有り得ん」「世も末だ」と揶揄する人も居るが

ただ単純に、理解してても「気持ち悪い」と感じる人が居るのも確かなのである。

 

「同性愛は気持ち悪い」と思う気持ちは

そこにちゃんと自分の意思があるのならば

別に悪い事でも、謝ることでもないと

(両性愛者でもある)俺としては思う。

 

何故ならば、それは同性愛でなくても同じ事だからだ。

 

男性が気持ち悪い女性もいれば

女性が気持ち悪い男性もいる。

それと同じでは無いだろうか。

 

そういう、好き・嫌い・気持ち悪いなどは

その人がどんな環境で育って来たかに寄るところが大きいと思う。

 

逆に言えば(自分が)同性愛者だから同性愛者が無条件で好きだ。って訳でもないと思う。

同性愛が気持ち悪いと思う同性愛者だっているだろう。

 

同性愛者の中にも

好きな奴、嫌いな奴、良い奴、悪い奴はいるわけで。

そんな中で自分がどんな同性愛者に出会ってきたかで印象は変わってくると思う。

 

ただ。

「同性愛は気持ち悪い」という気持ちは

自分の中でしっかり持ってればいいとは思うが

それを敢えて、攻撃として相手に浴びせてしまう事はどうかと思う。

 

気持ちを伝えること と 攻撃したいからする事は

行動としては同じ事のような気もするが

相手に伝えること と 攻撃 では

思いやりがあるかないかの大きな違いがある。

 

「なぜ気持ち悪いと思うのか」

それにしっかり自分の言葉で相手に伝えることが出来るのならば

 

別に謝ることは無いと俺は思う。

 

 

型にハマろうとする子供

「大人なのにまだぬいぐるみと寝てるの?」

ベッドの端に置いてあるスヌーピーのぬいぐるみを見て甥っ子が言った。

 

『そうだよ。』

私は誤魔化すことなく答える。

 

「なんでこれ置いてるの?」

スヌーピーのぬいぐるみを指して甥っ子が言う。

 

『だってスヌーピー好きだから。』

私はまた素直に答える。

 

甥っ子は少しバカにするような、恥ずかしい事だと云うような口調で私に言ったが

私は何も恥ずかしがる事はしていない。と言わんばかりに平然と答えたのだ。

 

何故そうしたのかと言えば

大きな流れの中で、周りに流されたまま、型にはまって欲しくなかったからだ。

 

男の子なのにぬいぐるみが好き🟰恥ずかしい、子供みたい

とか

女の子なのにロボットが好き🟰おかしい

とか

 

そんなくだらないことを平気で思って

人の"好き"を馬鹿にして悦に浸るような人間にはなって欲しくはなかったし、

自分が好きな物は好きでいいと、そう感じて欲しかった。

 

自分が何を好きであれ

それを恥じる事が何処にあろうか。

他人が何を好きであれ

それを馬鹿にしていい理由がどこにあろうか。

 

自分が好きな物をひた隠しにして

周りに合わせてバカにする事の方が私は生きずらかったし、

好きな物だけでなく、家庭や生活環境での違いなどで

平気でそういう事をしてた子に"別に馬鹿にすることでも、恥ずかしい事でもないぞ?"って態度を取って生きてきた人間なので

そこで誤魔化すのは自分で自分が許せなかったのだ。

 

甥っ子がそれに気付くか気付かないかは

私には分からない。でもこれから先もそういう接し方をするし、こういう人間も居るんだといつか感じてくれたら良いな。なんて思ったりする。

 

なんだか寂しい夜

夜の静けさが居心地のいい夜もあれば

なんだか無性に寂しく感じる夜もある。

 

誰かに会いたい訳でもなくて

何が寂しい訳でもなくて

でもどことなく寂しくて。

 

若い頃はあてもなく

ただ夜の散歩をする事もあったけれど

なんだかそれもする気にはなれなくて。

 

そんな悶々とした夜を

どう過ごすのが正解なんだろう。

 

やっぱり寝てしまうのが良いんだろうか。

なんて思いはすれど、寝付ける訳でもなくて。

 

そんなくだらないことを考えながら

一人、暗い天井を眺める。

 

 

昔よりも下手くそに

自分を隠す事が昔よりも更に下手くそになってる。

 

昔からそう上手いほうではなかった気はするのだけれど、それよりも更に露骨になってる気がする。

 

相手を不快にさせたい訳でも

気を使わせたいわけでも無いのだが

 

自分を上手く隠せなくて

そうさせてしまってる事が昔よりも多くなってる。

 

 

優しくなれない時

自分自身に余裕が無くなると

全てが煩わしくなる。

 

いつもなら許せてた事も

許せなくなったり、ため息がでる。

 

人と関わる事がストレスになる自分にとって

関わらなきゃいけない日が集中すると

イライラって云うよりも、気が重くなって

いつもなら気にならない連絡も煩わしくなって嫌になる。

 

それでも優しくしたい気持ちも

心のどこかにはあって、応対したりするけども

結局、心ここに在らずみたいに内容は入ってこないし、聞いてる様で聞いてない。

 

酷い時は面倒くささが態度に出てしまっている。

(その結果、気を使わせたりしてしまう。)

 

そのくせ自分の行動を思い返して深いため息が出たりする。

 

ほんと、わがままが治らない。

100%治さなきゃいけないことではないけど

自分がわがままであるということは

誰かがそのわがままを許容してくれてる訳で。

少なからず自分もその誰かのわがままを

許容しなきゃいけないというか、するべきなのだと思ったりするのに、なかなか上手くいかないことが多いのだ。

 

 

正しい事がいい事なのかどうか

色んなことが解明されたり

一昔前では分からなかった色んなことがわかって

「こうすることが正解だ。正しい事(処置や態度などなど)だ」と

言われたりすると、そうなんだなぁ!気をつけよ!と思ったりする。

 

その事を別に否定はしないのだけれど

「正解なんだから、それをして当然だよね?」

「出来ないのは悪い事だよ。」と

平気で言えてしまうのはどうなのかなと思ったりする。

 

例えば空を飛べる鳥が居たとして

飛んで移動する事が鳥にとっていい事だとする。

でも飛ばずに歩く鳥を

(人間が)飛ばそうとするのは、正しい事であってもいい事なのだろうか。と考える。

 

鳥にも個体差があって

たとえ早死するとしても飛びたくない個体を

飛ばそうとするのは本当に正しい事なのだろうか。

 

身近な事でいえば犬猫の飼い方とかだろうか。

全てのことに関してではないが

長生きや病気をさせないという面では

人間と同じ食べ物は与えない事が、自分で管理の出来ない犬猫に対して人間がすることで、

正しく、いい事だと言われるし

 

それをして当然で、それを守らない・知らない飼い主は動物に対する虐待だと言われる事もある。

 

たとえ少し早く死ぬことになったとしても

食べたいものを食べさせてあげたいと思う気持ちや行動は

本当に虐待なのだろうか。

 

動物を例にあげたけども

人間の子育てや介護にしたってなんにしたって。同じ事が言える事があると思う。

 

正しく努めようとするのは大事だし、いい事だとは思うが、

正しくある事だけが重要とされるのはどうなのかと思うのである。

 

極端な話にはなるが

正しい事を重要視して、正しくある事を全ての人間に押し付けたとして

それに適応出来ない人間が、プレッシャーや思い詰めて死んだとしたら。

死なずともはみ出してしまって苦しみ続けたとしたら

 

それは本当にいい事なのだろうか。

 

 

これは良い悪いの話ではない。

考えてるだけの話である。

 

男子が男に・・・なニュース

最近ではネット(SNSなど)でニュースを見る事も普通になって来たわけだが

昨今、定期的に男子中高生が男性にわいせつな動画を撮られたり、されたりするニュースが上がる。

 

そうするとコメント欄にはお決まりのように

・男かよw

・なんでJKにしないんだ

・男も被害に遭う時代になったか

などなど、これ以外にも訳の分からない偏見なども書かれていたりする。

 

広く言えばこういうコメントが何処にでもつくようになったのは、時代だなって思うしそれだけ認知されてきた証な気持ちもあるが

3つめに書いたようなコメントを見ると

この人は最近になってこういう事件が新たに増えたと思ってるんだろうな。なんて考える。

 

実際にはLGBTQは話題に上がる何十年も前から存在していたし、それと共に事件も存在していた。

それが昨今、ニュースとなり話題に取り上げて貰えるようになって、少なからずちゃんと事件として扱って貰えるようになった。

 

たったそれだけと言えば、たったそれだけの事なのだ。

 

今まで知らずに過ごせていたその人の人生は

そういう被害に遭ったことがないって意味では

幸運な人生だったのだと気付いて貰えたら…

バカにするんじゃなく、そういう考えに至ってくれたら良いな。なんて思う。

 

また逆に話題性ってだけでこういうニュースばっかり!ってうんざりしてる人もいると思う。

でも何者でも無かった、居ないとされてた人がいて。

蔑まれながら、バカにされながらも、ここに居るんだと存在し続けてくれた人たちがいて。

そういうのがずっと続いてきて

やっとひろく話題に取り上げて貰えて、それに目をとめてくれる人達や、当事者じゃないのに考えてくれる人達も増えてきた。

 

そういう所にもほんの少しだけ、一瞬だけでも。

思いをよせてくれたら良いななんて思う。

 

 

本当は過度にある報道や、色物のように目に映ることが無くなって

自然とそこにあって、世の中もそれを意識せずとも馴染んで当然のようになれれば良いのだけれど、

 

そういうのってやっぱり急にはなれなくて。

 

今のような時代もあって、ちょっと変わって、

また違う時代もあって…そうやって少しずつ

馴染んで行けたらいいんだと思う。

 

ニュースの話からだいぶそれてしまったな。(笑)